農業の醍醐味.50回


NPO法人関東EM普及協会 名誉会長
(財)自然農法国際研究開発センター 理事長
天野紀宜

はじめに
 京都府丹後半島の6町が合併した京丹後市を4月13日訪ねた。国のパイロット事業としてなだらかな山や雑木林を1区画1ha(1町歩)の圃場に造成し基盤整備した農地が、6町で6カ所にわたって400haの広さで拡がっている。
 耕作者は土地の地権者や入植した人、新規就農者など様々な人たちである。この国営農地の中にEMを活用して自然農法を行っている人は17人で耕地面積は平均すると1人5ha位であるという。6町に点在しているとはいえ結構な面積である。日常活動は旧の町単位で、自然農法の実施者同士あまり交流はないが、勉強会などは一緒に行うこともあるという。この夜も20人程の人が集まって会食をかねて交流会を行った。貴重な体験事例を聞かせていただいた。 
 この日圃場を見せていただいたのは大宮町の青木伸一さんと、弥栄町の梅本修さんの二人だった。お二人とも40代前半の働き盛りで、共通して感じられたことは、自然農法にかける強い意欲と夢を持ち、着実に現実のものとして前進しようとしている姿勢であった。それと、強い探求心と向学心があった。

青木伸一さん(右)と筆者

青木さんを訪ねて
 青木さんは就農して6年目を迎えている。就農の動機は次のようなことであった。「地球を救う大変革」を読んで、化学肥料・農薬を使わないで出来る農業があることに驚いた。妻も栄養士の学校を出て食の安全には関心があったので定年退職したら有機農業で就農したいと将来のビジョンを描いていた。ところが、バブルがはじけ、勤めていた建設会社も1,100人ほどいた従業員の半数を早期退職者の対象者として、50代から40代、30代へと話が進んできたので計画を前倒しして就農したという。
 新規就農支援金を受けて2年間の研修に入ったが、当初有機農業で受け入れる農家は紹介出来ないと断られた。それで、大宮町に減農薬で農業をしている人がいると紹介された。それが現在のところである。
 研修が始まり、学びを進めているときに研修先の農家から共同経営を提案されたが、減農薬は慣行農業の延長線上であり、自然農法とは根本的に違うので1年で研修を断り、研修を1年残して独立した。その1年が農業経営者としての1人立ちに幸いしたという。その間微生物の本を5〜6冊、有機ばかりでなく一般の栽培の本を5〜6冊は読んだ。どの本にも同じことが書かれているものは取り入れ、本によって違う者は畑で試して自分に合うよう少しずつ変えていった。また、地元でEMを活用して環境から農業、工業まで幅広く熱心に精力的に活動し、指導的役割を果たしているNPO法人地球環境・共生ネットの技術委員・当自農センター菜園アドバイザーの田中功さん、当自農センター理事京都大学の西村和雄先生、自然農法の先達である奈良の畑中幹雄さん、有機の学校「土佐自然塾」の理事長山下修さん、塾長の山下一穂さんに指導を求めた。青木さんは、本や先達からの学びを本に、自然を先生として作物を通して事実から学び、自らで道を切り開いている。今後も農業を通して真の知恵を磨いて行かれるのだろうと思った。
 青木さんの経営面積は2.1haで、栽培前歴のない雑木林を開墾した造成地であった。EMの活用を主として、木材チップの完熟堆肥によって、土を育てるのに最も大切な腐植の増加を計ったり、養分やミネラルの補給、雑草の有効利用など様々な工夫をしている。0.35haは不耕起栽培を始めた。年間70品目もの野菜を栽培している。訪問した時は種まきの時期だったがタマネギやインゲンなどが見事に育っていた。
 青木さんの農地の続きに、3人の子持ちと言うが、若い林という青年が農作業をしていた。この青年は、新規就農の支援を受けて青木さんのところで2年の研修を終え、今年から独立している。林君に対して研修中は決して教えることはしなかったという。自然に求めてゆく先輩としての姿から学び、自ら求めていくようし向けたという。「自分は手本でなく、見本だ」と言っていた。
今年から林君と建設設計をしていた人が反対側に隣接する圃場に就農する。青木さんは、20a以上あるのだろうか、この見渡せる範囲の農場全てが自然農法の農場になることを夢見ていると力強く語っていた。農薬の飛散の心配もなく、同じ志の人たちが集うことは力強いし、楽しいことである。この強い思いは、目に見えない偉大な自然の意志が感応して青木さんの意志はいつか実現していくのではないかと思った。
 青木さんの思いは、大宮町以外の国営農地で、特産である葉たばこの栽培などで生計を立てている専業農家の人たちに、自然農法取り組みへのきっかけを与え、拡がっている。就農当時この地域では自然農法など全く異端児だったことを考えると6年を振り返り感慨深いものがあるといっていた。
 農家にとって大変重要な流通にも力を入れていた。レストラン、旅館、ホテル、契約消費者、スーパーに出荷している。スーパーでは青木さんの農産物の特設のコーナーを設けて頂いている。青木さんの野菜を求める人が多いと言うことはそれだけ品質の確かさを証明している。
 今年の6月から「自然農法栽培農家出荷組合BIO」の事業を代表として開始するという。この事業を軌道に乗せ、ゆくゆくは橋本高知県知事のバックアップにより県とNPO法人との共同による日本初の有機の学校を開校させ、塾長となった山下一穂さんのように自然農法の後継者を育てていきたいと言っていた。
 この国営の地には遊休地が多い。こんなところへ新規就農できれば立派な見本があり、就農当初の様々な苦労は軽減されるだけでなく、余ったエネルギーは新しい創造へと回していけるのではないかと思った。
 新規就農して苦労したことは何かとの質問に対しては、常に前向きな青木さんは、少しとまどい気味に答えてくれたことは次の様なことであった。
 就農した当時は、大宮町では農業に対する支援には力が入っておらず、まして、有機農業・自然農法と言えば異端児扱いされた。周りの人からは、「農業はそんな甘いものではない」「野菜を育てるより子供を育てろ」などと言われたという。しかし、青木さんは、奥大野という部落に住み、この部落の行事や共同作業に積極的に参加した。また、青木さんの畑では使わない共同購入による大型機械代金として年間数十万円支払っている。つらいことだがこれも経費と思ってその分販売に力を入れているという。今では、色々言っていた人たちも手伝いに来てくれているという。すでに部落にとけ込んでいた。
 この日は、道路に標示されていた温度計を見ると9℃と出ていた。これに追い打ちするように冷たい雨が降ってきて春先の服装には堪えた。もう少しお話が聞けたらもっと勉強になったと思うし、申し訳なくも思った。

梅本修さん

梅本さんを訪ねて
 次に梅本修さんを訪ねた。梅本さんは、脱サラをし新規就農して10年になる。農業が好きで農業がしたくて新規就農した。有機農業を目指したのではなかった。農協の指導を頂き最初にどんな物を作りたいのかと聞かれて、何を作って良いか分からず野菜を作りたいと答えて驚かれたという。農協のすすめで、地域の特産である葉たばこ、大根、サツマイモに取り組んだ。2haから始め現在は7ha耕作している。
 農業に慣れてくると、いろんな野菜を育ててみたいと思うようになった。それには皆さんに買っていただくので無農薬にしなければと思った。そんな時EMとの出会いがあった。
 現在7haのうち自然農法は1ha、特別栽培で1ha耕作している。京野菜の漬物屋さん、ホテルなどに出荷している。特に自家産のサツマイモから作る焼酎は、ステンレスの短期の醸造でなく、カメで長期の醸造をする鹿児島県で仕込んでもらっている。
 EMを活用するようになって大型機械はいらなくなるが、いろんな資材は必要になる。例えば、米ぬかや米のとぎ汁発酵液や活性液の入れ物としてペットボトルなど。米ぬかは毎日精米所に取りに行き、ペットボトルはコンビニのゴミ箱に拾いに言ったという。しばらく続けていると、何をしているかを聞かれ、それがきっかけとなって今では米ぬかもペットボトルも届けて頂いている。倉庫には酒粕もいっぱいあった。まめにこつこつと続けていて様々な協力者を得ることが出来た。「まめにコツコツ」は、自然農法を続けていく上で極意になるのではないかと言っていた。人と人との心をつなぎ、思いやりの世界を広げていた。
 この冬は自然農法の持つ潜在力のすごさに触れたような体験をしたという。それは、今年の冬は記録的な積雪により、野菜は雪の下になってしまい集荷が出来なくなったり、大幅に遅れた。京人参で言うと、平均の3〜4割の出荷で、秀品率も低かった。梅本さんのところは、7割は出荷でき秀品率も高く、品薄と味の良さから高値で売れたという。人参は全滅だろうと思いながら、雪の解けた畑に行ってみると、雑草の中からすっと人参の葉が伸びてきているので掘ってみると立派な京人参が収穫できた。しばらくすると葉が出てきて収穫でき、隣の細い人参もみるみるうちに育って収穫できるという繰り返しの中で平年の7割が収穫できた。農家にもボーナスがあるのだと思ったという。
 梅本さんのホームページにこんな一文が載っていた。「農業という仕事は『家族みんなで目標に向かってがんばれる、そして家族みんなで喜びを分かち合える』仕事だと思います。そしてこれからも『自然の恵みを受けて、安全で美味しい野菜を作り、自然に恩返しする』努力を続けていきたいと思います。」 
 次のようにも載っていた。少し要約すると、住まいは、丹後で取り壊されてゆく築数百年の家の古材に巡り会い一部茅葺きの囲炉裏のある丹後の風景に溶け込んだ家を建てた。 自然素材で作った環境に優しい、みんなが集える、職人の技の光る家を建てたいと夢を見ていた。すると、意見の合った設計家、伝統技術を伝える棟梁、こだわりの職人との出会いがあった。構想から3年で現実のものとなったという。家には工夫された花が生けられ、壁には色とりどりの和紙を貼り、生活を楽しんでいた。

まとめ
 お二人にお会いして共通して感じたことは、自然と向き合って自分を磨き、家族で農業を楽しみ、自分や家族の健康ばかりでなく人様の健康を考え、仲間のことを考え、自分の出来る夢を持ち、心豊かな生活をしていることであった。お二人にあってふと思ったことは、お金持ちは一般にケチである。お金持ちになろうとすることは、心豊かな生活から遠ざかっていくことなのだ、経済の豊かさと、心の豊かさは反比例するのだと思った。

以上

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