農業の醍醐味.54回


NPO法人関東EM普及協会 名誉会長
(財)自然農法国際研究開発センター 理事長
天野紀宜

はじめに
 2006年9月末、宮崎県綾町を訪ねた。綾町には日本一の規模で、原生の照葉樹林が今なお残り、その文化を長い歳月大切に受け継いできている。町には、絹織物、木工品、竹細工、ガラス工芸、陶芸等があり窯元が11軒もある。
自然に恵まれた綾町は、「自然生態系を生かし育てる町にしよう」を町民憲章に掲げ、昭和63年「自然生態系農業の推進に関する条例」を制定した。全国に先駆けて有機の郷作りへの取組は大きな注目を集め、現在でも全国からの見学者は絶えないという。
山口今朝廣さんと天野名誉会長(右)

 その綾町で条例制定よりずっと前から自然農法に取り組んでいる専業農家の山口今朝廣さんを訪ねた。
 綾町の多くの農地、町の中心街より約200m上った標高250mの山の頂上部分に農地が開けていた。眼前に日本一の照葉樹林の山々が連なっていて爽やかな風が吹いていた。こんな景観の四季の移ろいの中で農作業が出来ることはなんと幸せのことだと思った。
 ここへはお父さんが戦後まもなく入植して開墾したという。大木が生い茂る山の頂の開墾である。松の大木は伐採してから3年ぐらいおいて、1本の根を1日かけて抜いたという。お父さんのお話は大変面白く開墾当時のことを1日聞いていても飽きないと言う。背筋が伸び、はつらつとしていて、とても80才と思えない元気さであった。
 経営規模は1.5haの畑作と昨年までは500羽の採卵鶏を飼育していた。お父さん、お母さん、奥さんと4人で経営している。3年前からは年1名の研修生を受け入れている。
 生産された農作物は全て産直で販売されている。
 200軒への産直による配送がメインで、その他、カントリーママ(100世帯)、なっぱの会(90世帯)、スーパー、生協、オーガニックレストラン2店に卸している。

自然農法への取り組み
 山口さんが農業を始めたのは37年前で、最初の12年はお父さんの経営のもとでミカン栽培に取り組んだ。その後25年間野菜作りに取り組んできた。そのきっかけは、綾町で有機の郷作りを推進した郷田町長さんに連れられて、千葉県三芳村(わが国における産直の先駆けの村)での自然農法の勉強会に参加したことだった。自然農法による産直の実際を見学したことが、産直に取り組むきっかけとなった。丁度その時、農業は全く素人だが旭化成を脱サラし、産直に取り組みたいという黒岩さんと二人で始めた。山口さんもミカン栽培は出来ても野菜作りは初めてで、三芳村の学びを元に、「現代農業」や様々な本から学び手探りで始めた。とにかく旬のものを栽培することによって収穫することが出来た。

産直への取組
 野菜作りを始めた年に産直への取り組みを始めた。パンフレットを1000枚作って隣町の宮崎市で配った。その時注文があったのは2軒だった。その2軒から始めた。たったの2軒のために4ヶ月配送を続けた。すると口コミで1人、2人と増え始め10人、20人、50人と増えて4年後には300軒に配送するようになった。そこで、150軒づつ配送することにした。「野菜を買ってください」とお願いしたのは二人だけで、後は消費者が消費者を作ってくれたという。
 栽培技術が身に付いて行くにつれてお客さんが増えていったことは、タイミングが良く、幸いしたという。採卵鶏も5羽から始め、20羽、30羽となり500羽となった。ただ、55才にもなると村の付き合いや法事が多くなり手が足りなくなる。そこで、養鶏は昨年より知り合いにお願いした。
 10年ほどすると、サラリーマン生活が長かった黒岩さんは、体力の限界を感じ、100名分の弁当配達に切り替えた。一人での配送になったので、300軒あったお客さんを本当に関心のある200軒に絞った。それから今日まで同じお客さんが続いている。配送できなくなった100軒の人は友達に紹介した。
 二人で配送した約10年間の収益は2人で2分した。山口さんが100万円、黒岩さんが20万円の時も60万円ずつ分けた。山口さんは、「二人で見つけたお客さんだから当然で、このことが今日まで続いている大きな要因の一つである。」と言っていた。
 配送は、200軒を100軒づつ2組に分けて火曜日と金曜日に分けている。野菜は、セット販売でなく自由な選択をしていただいている。その為、最後の家は野菜が無くなってしまうこともままあるが、必ず訪問し「今日はありません」と断ってくる。
 25年間で配送を休んだのは、急性盲腸炎で1週間1回だけだった。これが出来たのは、「休んでは困る」「当てにしていますよ」「美味しい野菜有り難う」と言う声。「消費者から頂く元気、気が合ったから」と山口さんは言っていた。
 野菜は年間約25品目を栽培している。大根は1本100円、白菜1個100円、ナスは5〜6個入って100円と殆ど100円で、25年前と値段は変わってないという。
 値段は、諸経費、労働時間等を加味して決めた。ちなみに市場での野菜の値下がりは著しく、大根1本市場で100円では売れないという。この値段はお客さんには納得いただいている。大根は大小関わらず1本100円だが家族の少ない人は細いの、多い人は太いのを買う。出荷の最盛期になると皆太くなってしまい次週残ってしまうときもある。
 二股の大根など、スーパーでは売れない野菜も、商品でなく食べ物として収穫した野菜は全て買っていただいている。一般で言う不良品を半値にするとその方から売れていく。二股の大根はスーパーでは買いにくというのが心理だろうと言っていた。 山口さんは、「食べ物は外観だけで商品化してはいけない、命を支える糧として扱われるべきだ」としみじみ言っていた。産直25年の重みを感じた。
 25年前、当時30代のお客さんも還暦を前後して老齢化してきている。販売量も減るので人を増やさなければと思うが、着実に若い人に受け継がれていて以前と変わらない。 配送は火曜、金曜コースと週1回100軒ずつ行っている。いずれも宮崎市内で、市の中心部と郊外の団地である。家が纏まっているので1日100軒配達出来る。
 火曜コースは、朝4時半にカントリーママの店、県民生協、なっぱの会(野菜の足りない時、この会は今では他の生産者に紹介している)オーガニックレストラン2軒に配達して一度家に帰る。そして、10時から夜9時まで100軒を廻る。暗くなると懐中電灯を使っての販売となる。
 金曜コースは、朝6時にカントリママ(国産の小麦でパンを作る会)へ配送し、7時から5時まで100軒を廻る。
  野菜の収穫には変動がある。多いときはいっぱい買っていただき、少ないときはスーパーで買っていただく。「ある時はある」「無いときはない」とお客さんとは信頼関係で結ばれ、心の繋がりを大切にし、野菜が無くなっても最後の人まで世間話をして帰る。「産直は元々顔が見えて話し合えること、これが本物の産直だと」と言っていた。
 野菜の端境期には、屋根の修理、自転車のパンク修理等、様々なことを頼まれたり人生相談なども有る。子育てや不動産の相談など様々だ。お客さんの中には弁護士さん、学校の先生、警察官など様々な人がいる。相談によっては紹介もする。相談事や話し合いこそ何よりも自分の学びになると言っていた。
 野菜の多いとき留守の家庭があると助かるという。1軒10秒ですむ。留守家庭の家族構成、相手が何を欲しいかも分かるので見繕って置いてくる。支払いは翌週になったり、お客さんとの二人だけの秘密の場所にお金が置いてある。振り込みの場合もある。長期に留守をするときは張り紙がある。
 お客さんによっては5分、10分、15分と話をする。お客さんは大体15分遅れると買い物などがあり遅いという。時間を調節しつつほぼ同じ時間に配達し続けている。
 大根にすがはいるなど不良品が入ったときはすぐ交換する。以前は現物をとっておいた人がいたが今では現物を見ないで交換している。信頼関係は出来上がっている。
 配達する中に果物、キノコ類など友達のものも入れているが、「山口さんのですか」と聞く人がある。山口さんのでなければいらないという人が多い。山口さんを信用していることと、応援したいという心がそこにはあると思う。

おわりに
 山口さんは商品を売ったのではなく、生命力溢れる食べ物を25年間お届けしたのである。消費者は、収穫時など、どうしても手が欲しいとき、一声かけると30人くらいはすぐ手伝いに来てくれるという。山口さんは消費者の真心に支えられている。山口さんの人柄を支持し、深い絆で結ばれていた。産消提携とは、心の循環、自然や生命の循環が主であり、経済は後からついてくることを学ばせていただいた。
 技術の変遷についてもお話を伺ったが紙面の関係で割愛させて頂く。ただ、山口さんが目指しているのは、様々な試行錯誤による経験から、虫に食われる野菜は虫の餌で、人間が食べるものではない。有機物により作物に養分を与えるのでなく、微生物が作り出した土の養分が本当の養分であり、それによって害虫のでない土作り、農業をしたいという。そのことが食べていただく人により本物をお届けすることだと言っていた。反面、商品としての作物が人間の体にとってどれだけ危険であるかも話されていた。
 もう一つ夢がある。3年前から研修生を年1人受け入れている。地域の活性化のため、この活動を拡大し、山口さんが生活している尾立に研修生受け入れの道場を作り、人材育成に取り組むと共に、「尾立の旬菜」と銘打って生命力豊かな野菜を生産し、綾町に尾立ありと言われるように、仲間達と取り組みたいと言っていた。
 山口さんは、200軒の人達へ野菜を届けることに人生をかけてきたともいえる。25年間続けることによって技術の進化と共に、心の成長、自然や生命を大切にした生き方、暮らし方の深化があった。そこに生き甲斐を見出していた。
 山口さんは決して倉を建てることを願ってはいない。ただ、消費者によって毎年安定した収入を保証されてきた。ハッキリとした意志を持ちながら少し控えめで、人を包み込むような暖かさと優しさを感じた。自分の生き方に確固たる自信を持っていた。

以上

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