農業の醍醐味.59回


NPO法人関東EM普及協会 名誉会長
(財)自然農法国際研究開発センター 理事長
天野紀宜
宮原夫妻と筆者
日本最寒の地という記念碑

はじめに
 前号の北海道新篠津村訪問に続いて7月20日道北の幌加内町を訪ねた。この町には、日本最大の面積を誇るダム湖、朱鞠内湖(しゅまりないこ)がある。その湖のほとりに日本最寒の地という記念碑が建っていた。マイナス41.2度と書いてあるが、想像もつかない寒さである。豪雪地帯でもあり、屋根の雪下ろしに歩いて屋根までいける年もあったし、年に20m46cm降った年は倉庫がつぶれた家も多かったと言う。5月中旬雪解け、6月遅霜、9月早霜、10月中下旬には本格的な降雪となる厳しい環境の地である。
 ただ、5月にはエゾノリュウキンカ、水芭蕉、エゾエンゴサク、カタクリ、ニリンソウなどの花が野を埋め尽くす。10月までは山野草、山菜、木の実、キノコの宝庫でもある。
 幌加内町朱鞠内地区には、かつては40戸の農家があった。宮原さんが新規就農した11年前に5戸あった農家が、現在は2戸だけとなり、その1戸も後継者が無く、いずれ離農するのではないかと言う。それだけ農業で生きるには厳しい土地柄である。
 幌加内町はソバの生産量日本一を誇り、ソバは幌加内町のブランドになっている。面積が日本一のソバ農場もあるが、ほかにジャガイモ、カボチャ、小豆などが栽培されている。そんな幌加内町で50haのソバ栽培と8haの特別栽培、自然農法の野菜を栽培している宮原克弘さん宅を訪問した。

幌加内町での就農
 宮原さんが北海道に来たのは13年前であった。北海道の新規就農招致事業第1号に応募したことからで、ご夫婦で専業農家での2年間の研修を終え、肥沃な十勝地方での就農を進められたが、此の幌加内町を選んだ。それには理由があった。宮原さんは登山家であり、青少年に対して野外活動の指導者をしていたが、アラスカのマッキンリー山を登頂後、アサバスカンインディアン部落で、現地の人達と狩りや漁をして3冬生活したと言う。
 奥さんは、プロカメラマンで夏アラスカに渡り、冬はその費用を貯めるために働いた。その二人がアラスカで出会い、結婚して2冬アラスカで暮らした。そんなことから、日本一寒く、屈指の豪雪地帯である朱鞠内を選んだ。そこは人を寄せ付けない厳しい自然だからこそ輝きを放つ豪快かつ繊細な生命の妙技を見ることが出来る。その大自然の創造力と一体となって生きていきたいと、この地に根をおろすことにした。
 アラスカに似て、起伏がなだらかでいて変化に富んだ広大な自然林、豊かな湖、「ここには、自然に畏怖の念を抱き続けられる森、全ての生命の根源の森がある」と言っていた。
 上流には誰も住んでいない綺麗な水源があった。どこにも気兼ねしないで有機農業が出来る処でもある。「朱鞠内は、広い北海道の中でも唯一私たちが望んでいる地であった。この地で生きていけるような農業をし、暮らしをしたいと思った」と言う。また、子育ての時期でもあり、その為にもこの地を選んだ宮原さんであった。
 朱鞠内で有機農業を志したのは次のようなことからであった。「大地を守る会」へ出荷している生産者の大根、人参等同じ野菜でもスーパーで販売されているのとはまるで味が違うことを知ったが、経済的に豊かでなかった当時、全ての野菜を「大地を守る会」から買うことは出来なかった。その寂しさと、いつまでも自分たちの食を人任せで生きていて良いのかという疑問が湧いていた。また、アラスカから帰国して食べたスーパーの肉が、アラスカで食べた野生の肉とあまりの違いに愕然とした。そんな漠然とした疑問や問題意識を持ち始めた時、福岡正信著の「わら一本の革命」に出会った。
 農業に駆り立てられる気持ちと、本物の野菜を子供達にお腹いっぱい食べさせてやりたい。何より親として一番大切な丈夫で健全な身体を作ってあげたい。自分たちも本物の作物に囲まれていたい。いつしかそれは夫婦の共通意識となっていった。
朱鞠内は何よりも水が良い。また、「夏と冬、昼と夜の激しい気温差が作り出すまさに芸術的な味、自然が厳しいほど作物は真剣に生きようとする。味も抜群のものが出来ると実感している」と言う。ここでの農業こそ本物の有機農業と言えると思っている。
 農業に取り組む姿勢を次のように語っていた。
 「農業をするなら、安全で安心、美味しいものを育てたい」「自然と共に生きる、ということに繋がる農業でありたい」「自分たちの生き様が、そのまま作物に繋がり、自信を持っておすすめできる作物を育て続けたい」と。
 しかし、狩猟採集には良くても、農業をするには想像を絶する厳しいものがあったと言う。就農は15haから始めた。作物を植えても枯れはしないがなかなか成長しない。まるで高山植物のようであったと言う。この土地に永く住むおばあちゃんから「一番やせた土地をもらったね。3年たっても何も出来ないよ」と言われた。当時町内の農家の集まりでは、こんなところで有機農業など出来るわけない」「すぐつぶれるだろう」「いつまで続くやら」「もう駄目だろう」等々言われてきたが、その言葉に返って心を燃やした。
 ただ、助けられもしてきた。大きな力になったのは元地主さんや特にその奥さんには3年間無償で手伝っていただき、様々な技術も教えてもらった。
 宮原さんは、先にも触れたが、学生時代探検部に所属し、野外活動の指導者もしていた。指導した子供達で、高校生から40才位の若者が、2〜3日から数ヶ月手伝いに来てくれた。また、改良普及所の人も何かと力になってくれ、不思議と助けられて来たと言う。この地にしっかりと根を下ろし、定住できたことについて今考えると、「ああ出来ちゃった。運が良かったのだ。植物たちが頑張ってくれたから」と言っていた。しかし、筆舌に尽くし難い苦労があった事は歴然としており、一口に言えないご苦労を幾つか話してくれた。

入植当時の取組
 入植した年から土を育てることに取り組み、この自然にどうやったら順応できるか考えたと言う。堆肥、EMボカシを鋤込み、EMも散布した。その年はジャガイモの大豊作の年で、ジャガイモは2.4haの畑で結構収穫できた。ただ、掘る機械、収穫する機械がないので手拾いで行った。想像以上の時間と労力がかかった。次の問題が起きた。収穫したジャガイモを保管する場所が無かった。倉庫がなければ凍結してジャガイモは食べられなくなる。最初、近くの農協の倉庫の片隅に入れてもらったが、豊作だった各農家からジャガイモが入ってくると、そこも出なければならなくなる。ジャガイモの置き場を求めてスペースのある農協の倉庫を転々としたが結局は凍結してしまい、その年はお金にならなかった。
 2年目は天候に恵まれずジャガイモは3haで5tに届かない収穫でしかなかった。
 3年目は、雪解けが遅く、雪解けと同時に長雨が続き、春作業が遅れて不眠不休の作業となり、最後のソバ植えを終わった頃、夫婦はダウンしてしまい、ようやく動けるようになった時、大水害でそば畑の約8haが水没し、3haは川になってしまい、畑への復旧も不可能になった畑もあった。自然が相手だと思うようにいかず、諦めも大切である。ただ、15haの経営規模では天候の影響をまともに受けてしまうので、経営を安定化させるため徐々に広げ、58haへと規模拡大したが、そこで生まれたのが労働時間と流通の問題であった。

農産物の販売
 野菜の販売は、当初は元の地主さんの販売ルートで宅配を始めた。ソバは、有機で取り組むと乾燥,調整に手が回らないので慣行栽培で農協に出荷している。
宅配には、大雪で雪解けの遅れ、早い初雪、長雨、集中豪雨、6月の遅霜、9月の早霜、台風等気候に翻弄された生活の有り様を率直に語り、詩情豊かな、心洗われる季節の便りを入れた。その「季節便りセット」の宅配が次第に増えた。300軒となり、500軒となった時、夫婦共々とうとうパンクし、ダウンしてしまった。宅配の事務作業が多く、件数が増えるに従って、時間が拘束され、地域の会合にも出られず、学校の行事にも出られなかった。農作業への影響も大きかった。ただ、「宅配がどんなに遅れても、届けられない時があっても、私たちの悪戦苦闘、こだわり、生き方を理解いただけるお客様に支えられてきた」と語っていた。
 規模拡大をした5年目,これからというときにBSE(狂牛病)の問題が発生し、日本中で肉鍋等が敬遠され、ジャガイモ、タマネギは売れなくなった。ジャガイモは市場に出すだけ赤字になった。ここを乗り越えなければ先がない処まで追い込まれた。そこで、小学生だった子供二人を3学期だけ転校させ、奥さんの実家に預けた。そして、東京の友達の家に泊まって、ジャガイモを持って営業を続けた。思うような成果が得られず、翌日帰らなければならないという日に、サイボクハム(埼玉種畜牧場サイボクハム、笹崎龍雄会長、年商60億円、2000年ドイツのハム、ソーセージ等の品評会で40個以上の金メダルを取り、グランプリに輝いている。)を訪ねた。普通なら飛び込みの人には会わないという野菜売り場の責任者が、北海道の人ということで会っていただけた。男爵10kgを置いて帰り、すぐ、「きたあかり」を送った。試食をしていただいた1ケ月後、販売許可を頂き、店頭での販売が始まった。味を評価され、会長さん始め多くのお客さんに支持されている。そこから経営は順調となり今日に至っている。現在は、サイボクハムと西友に特別栽培としてカボチャ、ジャガイモを販売し、宅配は従にしている。

入植当時の経済状態
 就農して5年目までは毎年赤字が続いた。主な原因は、15haでは天候の影響をまともに受けたことと、農業に不慣れであったこと、機械等設備投資不足であった。就農祝い金300万円はすぐに使い果たし、道の就農準備支援金の500万円を借り入れ、借金を重ねた。米は買うことが出来ずジャガイモを主食にした。時に豆を主食にするのは苦労したが、何も味付けしない方が食べられたと言う。子供達は学校給食で米は食える。「たまには白い米が食べたい、お父さんにも給食を持ってきてくれ」と冗談で言ったこともあると言う。肉と言えば鹿の肉しか食べられなかった。秋から冬にかけて猟の解禁になるため、年に二頭を捕らえて家族全員で捌(さば)いて食べることは出来た。
 赤字は農業で取り戻すしかできない大きな額だったので、農業を止めようとは思わなかったと言う。規模拡大し、サイボクハムとの取引が始まることによって経営面も軌道に乗りだした。4年前からはソバは自分で刈り取るようになった。中古だが二階建てのような大型収穫機械を手に入れることが出来たからである。

子供の教育
 高校1年になる長女 民果さんは、農業を継ぐことを考えてやる気満々である。中三の長男 松治さんは、トラクターにも乗り大人の手伝いをしている。
 二人とも忙しいときには学校を休ませて手伝わせ、また、小学生の頃から年末になるとサイボクハムでの販売の手伝いをさせた。今では販売の中心的な存在である。そこで、お客さんの声を直接聞き、自分の家の作物に自信を持ち、それが言葉となって出ている。家が農家であることに誇りが持てると言っている。親との一体となった生活が、人格形成の中心になってきた。
 民果さんは親に叱られてシュンとしたり、モヤモヤしている時、トマトなどの世話をしていると、そこからエネルギーをもらい心がウキウキしてくると言う。
 自然に満ちている、目には見えない気というか、気配を感じながら、自然の意志を、身体いっぱいに受けて生活しているのではないかと思った。

おわりに
 就農10年目頃から経営は安定してきた。新規就農故の数知れない失敗を乗り越え、どの農業の本にも載っていない宮原流の技術が生まれ、大型機械も導入出来た。
 また、短い夏の農作業に追われ、冬は、手作り自宅や倉庫の建設、雪下ろし、宅配と1年中仕事に追われっぱなしの生活からようやく解放されてきた。
 念願であった犬ぞりやテレマークスキーなど家族で雪洞を作ってキャンプ、ワカサギ釣りをし、春から秋にかけては山菜や木の実採りなど沢山の喜びや楽しみが生まれている。
「自然と共に暮らす、我が家流の生活スタイル、文化を、世代を重ねて楽しむ、それが生きるということだ。」と言う。そんな生き方、暮らし方を目の当たりにして、感動し、私たちにとって学ぶべきことが多くあることに感謝した。


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