土を育てる14回


土を育てる
NPO法人関東EM普及協会 名誉会長
(財)自然農法国際研究開発センター 元理事長
天野紀宜
 第四章 私の実践編

自然農法の理念・原理の習得
自然農法には、船に例えれば羅針盤のように、その方向性を常に指し示す「自然を尊重し、自然を規範に、自然に順応する」と言う、理念があり、「土の偉力を発揮する」という原理があります。
この理念、原理は哲学用語で、自然農法は、技術以上に哲学を重視し、大切にしています。創始者は、「不徹底な人の多くは、技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術は大して重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。」と言っています。

私が自然農法を学び始めた頃のことです。部落でも夫婦喧嘩で有名なFさんが居ました。農作業中も口喧嘩が止まりませんでした。ある時、私の自然農法の師でもあった先生が、Fさんに、「せめて種蒔きの時くらい喧嘩をやめて仲良くしたらどうか」と忠告しました。 その忠告を守ったFさんが驚いたのは、その年は、例年とはまるで違う発芽の良さと生育の良さが現れたのです。Fさんは農作業中は夫婦喧嘩を止めようと決意したそうです。
そのことがきっかけとなり、種子には生命があり、心があることを知り、育っていく土にも生命があり心があり、生命有るもの全てに心の有ることに気づくことが出来たと言います。そして、全ての生命は自分の心に反応していることに気づいたと言っていました。Fさんは、人格の向上を第一に取り組み、技術も伴った優れた篤農家となりました。

創始者は「自然農法の先生は自然である」と言い、次のように言っています。
「人は常に進歩向上を心掛けねばならない。ー中略ー先ず何よりも大自然を見るがいい。大自然においては一瞬の休みもなく、新しく新しく不断の進歩向上を続けている。ー中略ーこのように森羅万象ことごとく進歩向上しつつある実体をみて、人間と雖(いえど)もそれに倣(なら)うべきが真理である。」
「ただ物質的の事業や職業や地位が向上する、というそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。」と説いています。
 
     天野紀宜著
   自然から学ぶ生き方暮らし方
     発行 農文協

私は、自然農法を始めるに当たって、師から次の様な指導を受けました。「自然農法は、理念・原理に基づいている。自然農法を習得して行くには、技術の習得以上に自己の向上への努力が必要である。」と言うことでした。
師からは、「人格の向上始め、全てのことは自然から学べば良いが、私たちには自然から直接全てを学ぶのは難しい。先ず、創始者の自然観、歴史観、世界観、人間観等を学び、また、自然から学んだ多くの偉人、先人達から学ぶべきだ。」と教えられました。
そして、人格の向上では、特に、徳目と創造性の二つを身につけるよう教えられました。徳目については、自然には嘘がないように、嘘をつかないこと、正直であること、思いやりの心、謙虚さ等々、自然の意思そのものである多くの徳目を、一つずつ身につけることでした。
此の徳目が自然の意思であることを、徳目の一つである「思いやりの心」、「愛」について師から次のように学びました。
「自然の意思は、『真・善・美』で、創始者は、真善美が備わっていれば愛は自ずとそこに集まってくると説き、自然の意思は愛そのものであると説いている。また、釈迦は『慈悲』を説き、キリストは『隣人愛』を説き、孔子は『仁(思いやりの心)』を説いたのも、自然の意思を愛そのものと捉えたからだ。」と。
そして、徳目を身につける為に、コップに例えて教えられました。コップに水を注いでいっぱいになっただけでは駄目で、更にあふれ出るまでそそぎ続けなければ一つの徳目を身につけることは出来ないと教えられました。
階段に例えての指導もありました。階段には踊り場がありますが、踊り場まで登ってしまえば落ちることなく、次のステップに進めますが、踊り場の前で実践を止めてしまえば、もう一度一段目からやり直さなければならないと言われました。
徹底して継続した実践がなければ徳目は身につかないと言うことす。また、創始者は、「親切には限度がない」と言っているとも教えられました。
私は、徳目が一つでも多く身につくようにと、課題を与えられ、また自ら心に決めて、一時期、師の厳しい指導を受け、様々な失敗をしながら取り組んで来ました。それが現在の私です。師の期待に応えたとは言えません。申し訳なく思っています。

二つ目の創造性を身につけることについては、「自然は創造主であり、創造そのものである。自然の意思に沿って生きる私たちは創造的でなければならない。自然が常に進歩向上しているように、自然とシンクロして、進歩向上するには創造的でければならない。」と師から言われました。
また、「創造性を身につけるには、先ず先達のまねから入り、創造の道へと脱皮していくことだ」と教えられました。そして、「先達のまねを本当にするのは、自我を捨て、自我を乗り越えなければならない大変難しいことである。」とも言われました。
当初、私は、師がどんな苦難に遭っても、常に前向きな姿勢を失わず、常に新しい発見をしながら、前進していく姿を目の当たりにし、苦難に遭うと直ぐ落ち込んでしまう当時の私にとっては、不思議でなりませんでした。今思うと、師こそ創造の道を歩んでいたからだと思います。
私は、師をひたすら見つめ、創始者の論文に求め、多くの人や本から学ぶことを心掛けてきましたが思うに任せませんでした。常に反省ばかりですが、創造性を身につけた人間になりたい、それが人間としての価値だ、という心掛けだけは持ち続けて来たように思います。
以上のように、自然農法の基礎は、魂、人格の向上に取り組むことだと教えられました。そして、遅々とした歩みでしたがそのことに力を入れ、取り組んで来ました。今思うと、自然農法の行き着くところもまた魂、人格の向上にあるのだと思います。
豊かな思いやりの心。愛の心を育てることだと思います。その取り組みが自然農法の基盤になるのだと思います。

創始者は、自然農法を「農業の芸術である」と言っています。茶道や華道と同じように、農も道を求めての芸術であるのだと言っています。そのことを自然農法の理念、原理は示しているのだと思います。
技術の向上に於いても、魂の向上、人格の向上は大きく関わっていると教えられました。何故なら、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五感を磨くと同時に、その根本となる第六感である心を磨かなければ、自然の事実を正しく捉え、そこから学んで技術に生かして行くことは出来ないからです。
自然農法は、優れた自然観察から始まるのです。
自然農法の先達たちは、一様に魂、人格の向上に取り組み、それぞれの思想、哲学を持っていました。
そして、自然の偉大な能力を生かす優れた観察力と、技術の持ち主でした。
ただ、残念なことに、既に亡くなられた先達は多くなりました。